【トラペジウム】東ゆうは何故アイドル計画をノートに手書きしていたのか?

はじめましてこんにちは。

よく来たな。

私の名前はモサ。

しがないきらら好きだ。

 

今回はきららと関係ないという説があります。実際ありません。

5/10(金)から全国の映画館でトラペジウムという映画が公開されました。興行収入や一般的な話題性という点ではかなり苦戦しているようですが、ネットの一部の悪いオタクの間では爆発的に話題になり、私も気になったのでぼちろの映画と同じ日に観てきました。その後、原作を買って読んだり、地元の映画館で公開が始まったので2回目を観に行ったりして今に至ります。いやー、全然ハマっていませんね〜。

(えぇ……?)

(実際、ネットでは50回以上観ているあたおか……凄い人もいるので私なんかまだまだです)

さて、そんな訳で今回はトラペジウムの感想というか、映画を観て思ったことを書いていく訳ですが、毎回こういう時はどんな取っ掛かりというか糸口で書き始めようかな〜、と悩むものです。私は個性は無理に出さなくてもありのままの自分を出していけばそれが個性になると思っていますが、それはそれとして思っていることを正しく出力するのは意外と難しいですね?慣れが必要だと思います。

そんなことはさておき、結果的に今回私がトラペジウムを語る上で取っ掛かりにしようと思ったのは、劇中で主人公・東ゆうがよく手に取っている手書きのノートについてです。

 

サムネ用画像。

 

皆さんはこのノートについて、どう思いましたか。東ゆうの計画性・強かさを表している一つだ、と思った人も多いかもしれませんね。でも私は、ある違和感を覚えたわけです。その違和感も含めて、トラペジウム、引いてはアイドルというものについて考えていきたいと思います。よろしく頼む。

それでは、行ってみましょう。

 

○トラペジウム五行で分かるあらすじ

アイドルに憧れる少女・東ゆうは東西南北から美少女を集めて何やかんやでアイドルデビューするが程なくしてグループは空中分解、夢破れるも仲間たちの本当の気持ちに気づき再出発、見事アイドルとして花開くのだった。

 

○そもそもあのノートって

アニオリです。

いやー、ビックリしましたね。原作読んでも1ミリも出てきませんからね、あのノート。もしかしたら原作では何か言及があるかもしれない……と思って原作を買って読んだわけですが、まさかの展開でした。

さて、ついでにここで言っておきますが、トラペジウムはアイドルグループ乃木坂46のメンバーである高山さんが原作を書いており、それをアニプレックスとCloverWorksがアニメ映画化したという形です。つまり見えてるだけでも非常に多くの人が関わっており、一つ一つの描写について「これは○○さん(スタッフ)がこう考えているということに違いない!」というのが非常に言い辛くなっております。ですので、以下に書くことは特定のスタッフ誰かの思想という訳ではなく、トラペジウムという作品全体からのメッセージとして受け止めています。あらかじめご了承下さい。

 

○何故ノート

皆さんは思いませんでしたか、何でノートなんだろうって、何で手書きなんだろうって。

そもそも皆さん、手書きのノートとか今使ってますか?学生の人なら授業とか勉強では必須でしょうが、それでも最近ではタブレットを使う場面も増えてきていると聞きます。小学生の時に漢字の書き取りをめっちゃやらされたわ〜、という思い出がある人も多いと思いますが、もしかしたらこれからはそんなことはやらない流れになるかもしれませんね。

さて、もしかしたらこう思う人もいるかもしれません。学生なんだからノートに手書きするくらい普通じゃん?何がおかしいの?ってね。はい、それではここで東ゆうの自宅の私室を思い出して見ましょう。ベッドがあって、机があって、ポスターがあってカレンダーがあって、結構物が多いな〜、という印象があります。その中にはパソコンもあり、劇中では専らラジオを聴くために使われています。また、当然スマホも使いこなしており、SNSはやってなくても見る専として色々と活用はしているようです。

つまり、何が言いたいかというと、「パソコンやスマホじゃ駄目だったんか?」ということです。パソコンは流石に持ち運びが不便なのでアレですが、スマホとか、何ならタブレットとかでもいいですよね。東家の経済状況については、劇中ではアパート暮らしで父親が姿を見せていないので一瞬不安になりますが、原作を参照すれば父親は海外に単身赴任してるだけのようなのでそこは大丈夫です。食事とか部屋の様子とか見てもそれなりに良い感じなので、普通に中の中か中の上くらいはあると思います。まぁ要するに、経済状況が理由ではないだろうということです。

この件について、私は一つの仮説を立てました。それは、「東ゆうにとって、アイドルとは『そういうもの』だったから」というものです。何のこっちゃって?順繰り説明していきますね。

 

○あのノートはいつから書き始めたか

ここで一旦劇中の東ゆうの時系列について整理しておきます。

 

小四でカナダに留学。

テレビで日本のアイドルを観て衝撃を受ける(映画では明確に描写されていないが原作ではカナダでの留学中)。

中二の時に日本に帰国。

オーディション全落ち。高校受験する。

高校1年生、東西南北のスカウトに動き出す(劇中冒頭)。

 

この中で、オーディション全落ちした時期については劇中で明確な描写は無いのですが、前後の時系列から考えて中三の頃だと推測しました。そしてあのノート、東西南北のスカウト計画はオーディション全落ち後から計画したと考えられますので、実際にあのノートに計画を書いて実行に移すまでそれほど時間はかかっていないのだと思います。まぁ東ゆうの性格からして、長々と綿密な計画を練るより取り敢えず動いてみようとなるでしょうからね。

 

○アイドルとは、輝く者

東ゆうにとってアイドルとは、劇中でも何度も言及されていますが、キラキラ輝く者であり、自分もそうなりたい、そして可愛い女の子はみんなそうなるべきだ、というものです。色々と突っ込みたい部分は置いておいて、ここで注目したいのは、その肉体性、つまり、アイドルは一人の人間から出発している、という考えです。

人間には色んな側面があり、そして武器があります。歌が上手い人、踊りが上手い人、お喋りが上手な人、絵を描くのが上手い人、力持ちな人、走るのが速い人……そして現代社会では、その一部だけが切り取られて世間に拡散されていくことも珍しくありません。例えば漫画家ならば描いてる漫画は有名でもパーソナリティが不明な人は普通にいますし、顔が分からないけど売れっ子歌手という人も今は当たり前にいますよね。

ではアイドルは?アイドルは、現実世界のこれまで、今、これからがどうなるかはさておいて、トラペジウムの東ゆうにとってはアイドルとは生き様そのものであり、肉体からは切り離せないものなのではないでしょうか。一つ補強する論として、劇中で東ゆうはアイドルデビュー前に先回りして良い人エピソードのアリバイ作りをしています。これはアイドルデビュー後を見越した地盤固めでもありますが、アイドルは、アイドルになる前からアイドルでなくてはならない、だってアイドルはその人の過去も含めての生き様なのだから、と無意識に思っていたのではないでしょうか。人間性、と言い換えても良いかもしれません。少なくとも、人に見える部分はそうではなくてはならない、そう東ゆうは考えていたのでしょう。

(ただし亀井美嘉は隠れて男を作る)

 

○肉体、VTuberメタバース

現代社会において肉体性を語る上で、VTuber、そしてメタバースは避けて通れない話題でしょう。トラペジウムが書かれた2016年〜2018年頃は今ほどそれらは隆盛ではありませんでしたが、2024年現在はご覧の通りです。VTuberは数だけでなくその影響力も年々増しており、メタバースも一般の人々への普及が着実に浸透してきていると感じます。世間は今、確実に肉体からの解放への方向性に進んでいるのです。

そんな中でアイドルです。一部アイドルのようなことをしているVTuberもいますが、現在のアイドルの最大の強みは「会える、触れられる」ということではないでしょうか。勿論テレビやネットも大事ですが、会場に行ってライブを観て、握手会で握手をする、そういった肉体性、メタバースなどとは真逆の方向性がアイドルをアイドルたらしめていると私は考えます。無論、これは私が東ゆうはそう考えていると勝手に思っただけであり、今後のアイドル像がその方向性で続くかは分かんないんですけどね……

 

○デジタルでは、駄目なのです

話をノートの件に戻します。上で私は、「東ゆうにとって、アイドルとは『そういうもの』だったから」と書きました。『そういうもの』とは、生き様、そして肉体性です。

アナログとデジタルの違いについて、改めて考えてみましょう。アナログは、手を動かす必要があり、スペースを取って嵩張り、修正するのも大変で、時間がかかるものです。対してデジタルは、そんなに手を動かす必要はなく、省スペースで、修正もすぐに出来て、時間も短縮できます。おやおや、デジタルには良い部分が一杯ありますね。

では、それとアイドルとの関係は?デジタルは確かに時間を短縮出来ますが、それは同時に「消費が早い」という問題をはらんでいます。沢山の情報にアクセス出来るがゆえに、一つ一つの情報は使い捨てのようになってしまう。スピードの速い現代社会の象徴の一つでもあるでしょう。ですが我々は、かつてもっとゆっくりと生きてきたはずです。何でもかんでも爆速で消費していく、それが本当に正しい進化の形なのでしょうか。

東ゆうにとって、アイドルとは、1回やってみて駄目だったら諦めようとか、そんなものでは無かったのです。だから、デジタルでは駄目なのです。肉体が伴っていなくては駄目なのです。人生をかけてやることだったのです。その決意が、あのノートに、書かれていること以上に、手書きのノートに込められているのではないか、私はそう思ったのです。

 

以上です。

いかがだったでしょうか?

今回は本当に「何でスマホのメモとかじゃねーんだ?」という単純な疑問から飛躍してまとめてみました。実は最初はもっとVTuberに関することとか、現代のアイドル界隈の話とか、創作におけるアイドルの歪さとかにも触れたかったのですが、長くなるしトラペジウム関係なくなるので止めました。何か機会があれば改めて調べて書きたいと思います。

 

それでは、またどこかで会う日まで。

さようなら。