舞台とは真実と虚構の狭間を楽しむものだという話(舞台ぼっち・ざ・ろっく!の感想)

はじめましてこんにちは。

よく来たな。

私の名前はモサ。

しがないきらら好きだ。

 

2023年8月11日(金)に新宿歌舞伎町のミラノ座にて、舞台ぼっち・ざ・ろっく!の初日公演を観てきました。この記事はその感想を思いつくままに書いたものです。実際に劇場で観られた方や配信で観られた方、又は今後観に行く方の参考になれば幸いです。(舞台は8/20までやってます)

なお、この記事内では舞台の内容のネタバレを多分に含みます。というのも、表面だけをなぞった感想では原作の感想と変わらなくなってしまうので、踏み込んだ内容に触れることをご容赦下さい。

それでは、行ってみましょう。

 

○舞台の概要

まずは大まかな概要を確認しておきましょう。

この舞台は漫画およびアニメである「ぼっち・ざ・ろっく!」を原作としています。その具体的な内容としては、漫画ではコミックス1巻部分、アニメでは1話〜8話部分が舞台となっています。台風ライブとその打ち上げのところまでですね。漫画の方はともかく、アニメは9話〜12話部分のいわゆる江ノ島と文化祭編のところはカットされています。

私は事前の予想としては、アニメの1話〜12話部分を多少圧縮しても全部やるのかな?と思っていましたが、蓋を開けてみたら、「公演時間が2時間半であること」「原作の台詞やエピソードをほぼ取りこぼし無く取り入れられていたこと」といったこともあり、内容がアニメ8話部分までなのは妥当なところでした。(アニメ1話を実質20分とすれば、150分/20分=7.5話分ですからね)

まぁ原作から見ても、台風ライブとその打ち上げの話はこの作品の最初のクライマックスで盛り上がるところですし、結構まとまっていたと思います。

 

○面白かったところをつらつらと

続いて舞台の面白かった部分を手当たり次第に挙げていきたいと思います。

 

・ぼっちーず

キャスト紹介のところには事前に書かれていましたが、特に気にせずふーんと思いながら観に行き、開幕すぐ目を疑いました。

ぼっちちゃんが7人おる!!!!!

本人を含めれば8人です。観てない人のために簡単に説明すると、舞台上にぼっちちゃん本人の他にぼっちちゃんお馴染みのピンク髪とピンクジャージを来た人が7人出てきて、開幕踊り狂いました。何でだよ。更に簡単に説明すると、このぼっちーずとはぼっちちゃんのイマジナリーフレンドを表現しており、ぼっちちゃんの心の動きなどをより分かりやすく表現してくれる存在でした。それはそれとしてぼっちちゃん7人が入り乱れる姿は不思議な感覚でしたが……

なお、このぼっちーずは当然現実にはいないという体でしたが、実際にはぼっちちゃんの着替えを手伝ったり、小物を準備したり、虹夏ちゃんが突き飛ばしたり、喜多ちゃんと見つめ合ったり、ふたりちゃんにも見えていたりと、色々とやりたい放題でした。後藤ひとり、恐ろしい子

 

・舞台セット

舞台セットの動きなども演劇の見所かと思いますが、この舞台ではSTARRYをメインとしつつ色んな場面が表現されていました。下北沢の街並みも、下北沢駅、有名な劇場、スーパー、例の自販機など、アニメでもお馴染みのところが再現されていました。(ちなみに私はこの舞台を観に行く前に下北沢の街を散策して聖地巡礼していたので、よりハッキリと「あそこやん!」となっていました)

 

・ライブ

公演中にはライブシーンが何回かあり、全て生演奏だったそうです。凄いぜ。特にぼっちちゃんはアニメで表現されていた「のめり込んでいくと猫背になる」という部分も再現されており、これはもう本当にすげーって感じです。結束バンドは確かに目の前にいた。

 

・アニメでもあったなその演出

BGMの一部はアニメのものがそのまま使われていたと思います。俺はサントラを持ってるから詳しいんだ。

あと、アニメでは二回あった終わる詐欺(アニメ1話でEDが流れたやつ&アニメ3話で偽エンドカードが出たやつ)も再現されていました。そんなとこ再現すんな。ちなみに偽エンドカードはちゃんと実写になっていました。止めろ。

個人的に一番噴いたのは、アニメ8話のラストで虹夏ちゃんが「ぼっちちゃんのロック……ぼっち・ざ・ろっくを!」と言ってED「なにが悪い」がかかるのですが、それも再現されていました。「なにが悪い」を流しておけば取り敢えず何か良い感じになるみたいなの止めろ。

 

・アニメとは違ったところ

アー写パンチラ事件の部分はカットされていました。それはそう。

あと、台風ライブでアニメでは1曲目にギターと孤独と蒼い惑星、2曲目にあのバンドで、3曲目は描かれていませんでした。これが舞台では1曲目と2曲目は同じですが、3曲目もしっかりと演奏していました。ちなみに曲は「青春コンプレックス」です。その他、最後に「Distortion!!」もありましたので、全部で4曲ですね。

また、打ち上げシーンはほぼ丸々カットですが、これは実質7.5話分なのでしょうがないと思います。

 

・挙動不審な後藤ひとり

ぼっちちゃんはコミュ障というか色々と変人なのですが、舞台でもそれはいかんなく発揮されていました。店長に無駄に接近してジロジロ見てるところとかはマジで何やってんだってなりましたね。あと、最後のみんな揃っての挨拶のところもかなりワチャワチャしていました。これはもう演者の演技なのか素なのかが分かりませんが……

 

・みんなの太陽虹夏ちゃん

虹夏ちゃんは明るくてしっかり者でみんなのまとめ役という雰囲気が完全に再現されていました。でも俺は台詞を二回トチったのを見逃さなかったぞ。(忘れろ)

 

・山田リョウ

舞台の偉い人が言ってましたが、山田というキャラは中々演じるのが難しいキャラです。ミステリアス一辺倒という訳でもなく、コミカル味が強いという訳でもなく、パッと捉えるのが少し大変ですね。でも舞台では、山田の持つ一種の「孤高」な部分が表現されていたと思います。何というか、山田には独特の雰囲気があり、山田がいると虹夏とはまた違った安心感があるんですよね。

 

・キターン

舞台でもキターンは再現されていました。キターン。

あと、割と見逃せないのが喜多ちゃんのギターがベースだと判明する場面で、喜多ちゃんがオリジナルソングを披露する場面がありました。喜多ちゃん歌上手いな……

 

○舞台の上の真実と虚構

舞台ぼっち・ざ・ろっく!の感想はここまでで大体終わりです。この後はほぼ蛇足です。暇な人だけ読んで下さい。

 

・舞台とは虚構である

これは私が今まで何となく考えていたことですが、今回の舞台を観て改めて思うところがあったので書いてみました。

舞台とは虚構です。

厳密に言ってしまえば、全ての創作は虚構と言えなくもないのですが、例えば実写のドラマや映画であれば、家のシーンが必要であれば家でロケをしますし、ライブハウスが出てくるならライブハウスでロケしますし、お城の場面が必要ならお城でロケするでしょう。色んな事情でロケ出来ない場合でも、現代ではCGなどで本物そっくりに作ることも可能です。仮にセットだとしても基本本物そっくりですね。

翻って舞台です。舞台は全てのものが作り物です。家のシーンが必要だからといって家を持ってくる訳にはいきませんし、ライブハウスが必要でも本物のライブハウスにはなれません。ましてやお城なんて100%ハリボテのセットでしょう。

では、舞台は全て作り物だから、ドラマや映画より劣るものなのでしょうか。私はそうは思いません。観客や、舞台を作っている人もそう思っている人は少なくないでしょう。何故でしょうか。それは、「舞台は虚構である」ということは、観客は織り込み済みで見ているからです。

オタクにとって馴染みの深い舞台と言えば、いわゆる2.5次元のミュージカル、または特撮好きの人ならヒーローショーなんかもあるかもしれません。舞台では全てのことを完璧に再現は出来ません。舞台の上で実際にテニスをする訳にはいきませんし、自転車を走らせる訳にもいきません。ライダーキックやスペシウム光線なんて以ての外ですね。

ではオタクがそういったものに失望してるかというとそうでもなく、むしろのめり込んでいる人も多いですね。それは「自分の脳内で補完している」からです。実際に舞台の上でテニスはしてなくても、オタクの脳内ではテニスが繰り広げられているのです。実際にライダーキックで怪人が爆発しなくても、オタクの脳内では怪人は爆散してるのです。

漫画やアニメ、あるいは実写のドラマや映画などはある意味で一面的なコンテンツです。あまり脳内補完するような余地はありません。しかし舞台では、観客は自然と脳内補完をしているのです。漫画やアニメの実写化は度々再現度について問題作を排出していますが、舞台に限ってはあまり悪評を聞きませんね。それは、元々舞台は脳内補完が必要なコンテンツであるということと相性が良いせいかもしれません。逆にどれだけ幻覚を見れるかがオタクの強さですね。すみません流石にそれは嘘です。

 

・舞台には真実がある

舞台の魅力とはなんでしょうか。色々あると思いますが、私は最も大きいのは「生身の人間が目の前にいる」ことではないかと思います。

人間は生きています。当たり前です。しかし皆さんは、果たして普段の生活でどれだけ生身の人間と接しているでしょうか。都会暮らしの人はまた違うと思いますが、私は普段は田舎で暮らしており、仕事も特に人と関わるものではないので、意外と生身の人間と触れ合うことって無いんですよね。勿論、X(Twitter)を開けば同好の士は幾らでも見つかるのですが、そういった人たちがどんな顔をしてどんな生活をしてるかまでは分かりません。俺たちは孤独の中で生きている。

さて、そんな中での舞台です。舞台はテレビで見るドラマとは違い、本当に目の前に役者さんがいて演技をしています。まずその情報量が段違いです。テレビでは役者さんの顔がアップになれば顔より下の情報がありませんし、テレビに映る画面以上の情報は得られません。しかし舞台は、常に役者さんの全身の演技を浴び続けることになります。更には舞台の空気感、客席の空気感なども加味されます。舞台とは思っているよりもはるかに濃密なコンテンツなのです。

もう一つ付け加えるとしたら、「観客のリアクションがダイレクトに伝わる」というのも面白いところですね。今回の舞台でも面白いところでは笑い声が起き、素晴らしい演奏には拍手が起きました。いわゆる一体感というものは、昨今では応援上映なんてのもありますが、観客のリアクションがノータイムで役者さんに伝わるというのはやはり舞台ならではでしょう。

一つ上で私は舞台は虚構だと言いました。しかしその一方で、舞台には確かに真実があるのです。今回の舞台では生演奏のライブシーンがありました。そこには嘘など何一つない、確かな結束バンドの音楽があったのです。人間の温かみ……なんてものはもはや陳腐な言葉の一つになってしまいましたが、それでも生身の人間が対面でアクションを起こすというのは、アニメを観たりだったりYOUTUBEでPVを観たりというのとはまた違う、リアルの良さというものがあるのではないでしょうか。私はそう思うのです。

 

・キャラクターを「演じる」ということ

最後は少し舞台からは離れるかもしれません。

後藤ひとりは架空のキャラクターです。大元は漫画であり、アニメでは声が付き、舞台では生身の身体を得ました。ではどこまでが後藤ひとりなのでしょうか?

青山吉能さんは後藤ひとりのCVですが、青山吉能さんは後藤ひとりではありません。これは青山さんも常々言っていますが、青山さんは後藤ひとりを演じていますが、青山さんと後藤ひとりとは違うところも多いということはかなり意識されているそうです。つまり青山さんは後藤ひとりを構成する要素の一部ではあるが、後藤ひとりそのものでは無いということですね。

守乃まもさんは舞台で後藤ひとりを演じました。かなり後藤ひとりです。しかし思い出してください。後藤ひとりは架空のキャラクターです。現実には存在していません。ならば、現実に存在している守乃さんが後藤ひとりというのはおかしいのではないでしょうか?あくまで「後藤ひとりを演じている守乃まも」ではないでしょうか?

何が言いたいかと言うと、「俺たちは共通の幻想を見ている」ということです。虚構の話に一部繋がりますが、後藤ひとりというキャラクターは原作者のはまじ先生の中にしっかりとしたものがあると思いますが、それが全ての読者、視聴者に同じイメージで共有されているとは限りません。ある者は一面を誇張し、またある者は一面を見落としていることもあるでしょう。でもそれは仕方のないことだと思います。だって実際にはいないんだから。むしろ実在の人物であってもイメージが固まらないことがよくある世の中ですので、いわんやフィクションをや、です。そういう訳で、我々は余りにも幻覚を見るのに慣れ過ぎているという訳です。でもこれが人間の人間たる所以、の一つかもしれませんね。

 

以上です。

いかがだったでしょうか?

舞台ぼっち・ざ・ろっく!は来年に円盤も発売されます。少々お高いですが、もし良かったら買ってみるのもいいですね。

 

それでは、またどこかで会う日まで。

さようなら。