無題

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今回は完全に私の個人的な備忘録なので他の人は頑張って察すること。

 

「はなまるスキップ」

友情とは、普遍的で絶対的なものである。友達とは、信頼・共感・肯定、そういったポジティブな感情を共有出来る関係のことである。そんなことは誰でも知っている、子供だって知っている、共同体を作って生活するような知能が有れば野生動物ですら知っているだろう。それくらい友情とは、ありふれていて、陳腐なテーマなのである。

本当にそうだろうか。本当に友情とは、そんなに簡単なものなのだろうか。

はなまるスキップに小川めぐりというキャラクターがいる。一言で言うとクズである。私は今からクズの話をする。小川めぐりは金持ちであることを鼻にかけ、他人の威を借りて威張り、常に他人を見下し、他人を信用していないキャラである。書いておいて何だがちょっとクズが過ぎると思う。良い所がまるで見当たらない。

だがしかし、私は小川めぐりのことが嫌いではない、むしろ好きである。何故私は小川めぐりのことが好きなのか、それは彼女が、私に友情について思い出させてくれたからだ。

私は小川めぐりほど性格は悪くなかったと思っているが、私も友達を作るのはあまり得意ではなかった。私は人と話すのが苦手だった、人に喋りかけるのが苦手だった、何かを主張するのが嫌だった、自分のことを話すのが嫌だった、誰かといるより独りでいる方が楽だった。

そんな私でも、少ないながらも友達はいた。とてもありがたいことだと思う。友達とは他愛もないことを喋り、他愛もない遊びをして、下らないことで喧嘩をした。今となっては詳しいことは思い出せないが、楽しかった思い出だけは今も私の胸の中に確かに残っている。

小川めぐりの友達は、途中までは主人公の星見はるだけだった。他の周りの人間はかなりぞんざいに扱っていた。そんな小川めぐりは物語の終盤、親の都合で転校しないといけなくなる事態になり、みんなと別れるかもという話になる。自暴自棄になりかけていた小川めぐりだが、そんな時に周りのみんなは彼女に向かってこう言うのである。

「私たち、お友だちですよ」

壁を作っていたのは、小川めぐりの方だけだった。みんなはもうとっくに、小川めぐりのことを友達だと思っていたのだ。一緒に笑い、一緒に泣き、一緒にぽかぽかする。それだけで人は簡単に友達になれるのだ。そんなことを、私は小川めぐりとその友達に思い出させてもらったのだ。

友情とは、目に見えない。友達とは、何か形を残す関係ではない。それでも、友情とは、友達とは、時代を越え、場所を越え、種族を越え、受け継がれてきた概念である。小川めぐりのようなクズでも、友達は出来る、友情を感じることは出来る。そんなことを、私はかつて私の中にあった友情と一緒に思い出すのだ。

 

「ぼっち・ざ・ろっく!」

自分の気持ちを言葉にするのは難しい。もし自分の気持ちを一言でビシッと表すことが出来たら、それはどんなに気持ちの良いことだろう。しかし現実はそう上手くはいきません。私は自分の語彙力と表現力の無さを恨みつつ、日々黙々と生きています。ですが仮に一言で気持ちを伝えることが出来なくても、その時は十の言葉で伝えよう。もし十で足りないなら、百の言葉、千の言葉を持って皆に想いを届けよう。
ぼっち・ざ・ろっく!で私が好きなキャラクターはぼっちちゃんと喜多ちゃんです。二人は単体でも勿論魅力的なキャラクターですが、私はこの二人の組合せに注目しています。私がこの二人の組合せに注目するようになったきっかけは文化祭編です。それまでのぼっちちゃんと喜多ちゃんは、お互いにまだ少し距離があり、どちらかと言うと遠慮がちな状態でした。そんな中で始まった文化祭編、ぼっちちゃんが一度は出すのを止めたステージ申込用紙を、喜多ちゃんが勝手に出してしまったことから物語は動き出します。
何故?何故喜多ちゃんはそんなことをしたの?
その疑問は完全には解決しないまま物語は進み、そして文化祭が始まりいよいよ結束バンドのステージがやってきます。しかしステージ上ではぼっちちゃんのギターにトラブルが発生、絶体絶命かと思いきや、喜多ちゃんの機転と猛練習の成果により、何とかステージを繋いでいきます。そして口には出していなかったかもしれませんが、喜多ちゃんの想いがぼっちちゃんへと伝わっていきました。
「皆に見せてよ、本当は……後藤さんは凄くかっこいいんだってところ!」
この台詞で、私の喜多ちゃんと、喜多ちゃんとぼっちちゃんの関係性の見方はガラリと変わりました。喜多ちゃんにとってぼっちちゃんは、バンドのメンバーであり、ギターの先生であり、学校の同級生でした。しかしこの時は、喜多ちゃんにとってぼっちちゃんは、それだけでは無い「何か」になったような気がしたのです。
残念ながら、私はその「何か」を表す上手い言葉を見つけることは出来ませんでした。しかしそれなら、私は言葉を尽くして二人について語ろうと思います。それが私にとってのこの問いに対する答えです。
喜多ちゃんにとってぼっちちゃんは最初から憧れでした。自分には無いギターの才を持っていることは、それだけで彼女にとっては憧れとなるには十分だったのです。喜多ちゃんにとって今まで大抵のことは卒なくできました。友人も多く、勉強もでき、スポーツ万能で、周りの評判も良かった。しかし本当に欲しかったものは、手に入らなかった。諦めていた。喜多ちゃんがぼっちちゃんに出会ったのは、そんな時でした。
ぼっちちゃんは図らずも喜多ちゃんを導き、喜多ちゃんもぼっちちゃんに新たな風を吹き込みました。二人は結束バンドで交流を重ね、喜多ちゃんの憧れは良い意味で現実的に変化していきます。喜多ちゃんのギターの腕前はめきめきと上達していきましたが、それは同時にぼっちちゃんのギターの腕前を正確に認識することになり、結果として喜多ちゃんの中で歯がゆさという感情を生み出していくことになったのです。
喜多ちゃんにとって結束バンドは家族です。勿論、結束バンドは本物の家族ではありません。しかし喜多ちゃんにとってはそれくらい、損得勘定抜きに所属できる居場所となっていったのです。だから喜多ちゃんは、許せなかったのではないでしょうか、ぼっちちゃんの凄さを分かってくれる人が周りに少ないことに。その感情は決して、ぼっちちゃんを売り出して有名にしてやろうとか、結束バンドを人気にしたいとか、そんな打算的な考えでは無かったのだと思います。只々、彼女は、自分の隣にいる人間の凄さを皆に知ってもらいたかっただけなのではないでしょうか。
そして喜多ちゃんは、自分もぼっちちゃんの隣に立つことが出来る人間になりたいと思いました。だからギターの猛練習もしました。ぼっちちゃんと同じくらいギターを上手く弾けなくても、ぼっちちゃんを支えられるような自分になりたかったのです。それは決して、憧れという一言で片付けられる感情と関係ではないと思います。二人はお互いに自分の中に無いもの相手の中に見つけ、それを尊重し、そして共に歩いていきたいと思ったのです。二人はこの文化祭のステージを通して、確実に、より強く、絆が深まったのだと思います。
ここまで語ってきて、やはり私はこの関係にピッタリ当てはまる言葉を見つけることが出来ませんでした。それらしい単語を当てはめることは出来ます、しかしそれはどうしても、100%の私の気持ちを表してはいないのです。だけど、別に焦らなくてもいいのではないでしょうか。喜多ちゃんもぼっちちゃんに本心を打ち明けるのは文化祭からまた少し先の話です。私もゆっくりと、自分の気持ちを大切に、これからも二人の関係を見守っていきたいと思っています。

 

「ななどなどなど」

私は高山萌を羨ましく思っている。

高山萌とはななどなどなどに登場するキャラクターで、可愛くて人気がある。しかし私が羨ましいと思っている点はそこではない。可愛いとは思っています。

高山萌は犯罪者だ。これもまた別に、私は犯罪者であることに憧れている訳ではない。ついでに言うと高山萌はまだ捕まってはいないので厳密には犯罪者ではない。きららヒロインを犯罪者呼ばわりするのはいかがなものかと思うが、きらら展の4コマでそう書かれてしまったのだからしょうがない。私のせいではない。

高山萌は歪んだキャラクターだ。私はそう認識している。表の顔は優等生、誰からも人気があり、誰に対しても優しい。まるで天使のような存在だ。しかし裏の顔は、盗撮盗聴は当たり前、目的のためなら努力は惜しまないストーカーだ。そこだけ抜き出すとまるで悪魔のようではありませんか。一体どちらが、本当の高山萌の顔なのだろうか。

高山萌の根底にあるのは、情熱だ。そしてその情熱の向き先は、吉岡るるという少女だ。吉岡るるは高山萌の同級生で、高山萌は入学前に偶然出会った時に吉岡るるに一目惚れし、以降彼女のストーキングに勤しんでいる。しかし吉岡るるには決してその気持ちを気づかれないように振る舞っているので、二人の距離は中々縮まらないのである。

私は高山萌の、そういった仄暗い情熱を羨ましく思うのだ。私も学生時代はそこそこに優等生であったが、部活に打ち込んで大活躍することもなく、浮ついた話も特になく、平凡な学生生活を過ごしていた。別にそのことに関して今も特に後悔している訳ではないが、私は高山萌を見る度に、私だったらこのような情熱を燃やすことが出来ただろうか、そんなことを思うのだ。

高山萌の吉岡るるに対する感情は少し複雑だ。高山萌は吉岡るるのことが好きだが、それはいつか告白をして両想いになりたいというものではない。高山萌は吉岡るるをどうこうしたい訳ではないが、吉岡るるが他人のものになってしまうのは我慢ならないので、どこかに閉じ込めたいと思っている。やっぱり犯罪者の思考ではないだろうか。

高山萌は優秀だ。大抵のことは何でも出来る。勉強もスポーツも出来るし、ゲームをやらせれば飲み込みも早い、お菓子作りも出来る、バイトだってこなせる。しかしそんな高山萌も、誰かの特別な存在にはならなかった。いや、なろうとしなかったのかもしれない。そして今も、誰かの特別、すなわち吉岡るるの特別な存在になりたいとは願っていないように見える。それは何故だろうか。

高山萌は、自分に厳しく、他人に優しい性格だ。実は私が高山萌のエピソードで一番印象に残っているのは、吉岡るるとその他二人がゲームセンターに行く時に高山萌も誘ったが、高山萌はバイトがあるからと断った話だ。私の中で何故このエピソードが強烈に焼き付いているのか、それは高山萌は倫理観が無いように見えて、実際は他人に迷惑をかけることを凄く嫌う性格をしていることが垣間見えるからだ。

ストーキングは迷惑行為ではないのか?という話は一旦置いておいて、私はこれが高山萌の本質であり、そして呪いであると考えている。高山萌は優しい、自分の身を削ることも厭わない。しかしその一方で、他人の深いところに踏み込んだり、逆に自分の深いところに踏み込ませるようなことは避けているのではないか。自分と他人にどこか線を引き、それが吉岡るるという情熱の対象を得た後でも、高山萌の行動を縛っているのではないか、私はそう思うのです。

高山萌と吉岡るるの今後がどうなるのかは、私には分かりません。しかし一つだけ分かっていることは、高山萌は最初から今まで常に一生懸命であり、またこれからもそうだろうということだ。願わくば今後高山萌は自分の殻を破り、吉岡るるとの関係に一歩を踏み出して欲しいと願うばかりである。

最後に、私の高山萌に対する感情は、好きとか、愛とか、推しとか、そういったものとはまた少し違うのかもしれない。私は高山萌のようにはなれなかった。でもだからこそ、私は高山萌を羨ましいと思った。いつか私も、高山萌のように情熱を傾けられる人間になりたい、そう思っているのだ。

あ、でも犯罪は駄目ですよ、絶対。

 

「火星ロボ大決戦!」

あなたが最初に読んだまんがタイムきらら作品は何ですか?

私は人にこの質問をするのが好きだ。何故なら人の人生と経歴は多種多様、十人十色、人の数だけ答えがあるからだ。どこでまんがタイムきららに出会い、そして何故今も読み続けているのか、その答えは本当に星の数ほどあると思う。

さて、では私が初めて読んだまんがタイムきらら作品は何かというと、それは火星ロボ大決戦!である。

正直な話、火星ロボからきららに入りました!という人は、私以外にまだ出会ったことがない。もしかしたらどこかにいるかもしれないが、恥ずかしくて言えないのだろう。私だって言えるものなら、ひだまりにハマって……とか、きんモザごちうさが好きで……とか、ゆるキャン△が面白くて……とか、そんな格好良いことを言ってみたかった!でもそれはしょうがない、私の入口はもう火星ロボと決まってしまっているのだ。

私が火星ロボと出会ったのは2008年頃、書店で漫画を物色していた私の目にある帯の言葉が飛び込んできたのだ。その帯にはこう書かれていた。

「火星ロボはスーパーロボット大戦に参戦できますか?」

「聞かれても困ります(笑)」

スーパーロボット大戦(スパロボ)とはご存知大人気ゲームであり、私もスパロボが大好きだった。その帯のコメントはスパロボの有名プロデューサーのものであり、当然名前を知っていた私はその漫画に興味を持った。その帯が付いていたのは2巻だったので、1巻も探して一緒に買ったこともよく覚えている。

家に帰って火星ロボを読んだ私は衝撃を受けた。4コマ漫画でこんなにも巨大ロボットが大暴れしているなんて!そして何てエッチでスケベで下品なんだ!と。

当時の私はまず4コマ漫画雑誌があることすらよく知らなかった。私の中で4コマとはゲームのアンソロジーによくあるものというイメージがあり、オリジナルでこんなに面白いものがあるなんて想像もしていなかったのだ。あまりにも衝撃を受けすぎた私は、この漫画はまんがタイムきららキャラットという雑誌に連載されているらしい、ということに気がついて、時を置かずにまんがタイムきららキャラットを買うようになっていったのだ。

その後、私は次第に他のきらら作品にも触れ、他のきらら雑誌も買うようになり、いつしか全てのきらら雑誌を買うようになっていた。もしもあの時書店であの帯を見なかったら、冗談ではなく私の人生は変わっていたと思う。それくらい私にとって、火星ロボとあの帯は人生のターニングポイントだったのだ。

まんがタイムきららが生まれてから20年、この20年できららは多くの人に共通のイメージを持たれるようになった。それは例えば可愛い、萌え、ギャグ、美少女といったものであり、時には他社のきららでは無い作品に対しても「きららっぽい」と言われることが起こる程である。勿論、そのイメージ自体は私もそうだと思うし、間違ってはいないと思う。でもその一方で、私の心の奥底の、私のきらら観の土台にあるのは、如何せん火星ロボなのである。

火星ロボはとてもお馬鹿でエッチな作品だ。もしかしたら今のきららのイメージからは外れているかもしれない。でも、だからこそ、私はまんがタイムきららにあらゆるカオスを受け入れる懐の深さを見い出し、そこに惹かれていったのだ。だから私にとって、火星ロボは今でも私のきららの原点なのである。

時は流れ2018年、この年はきらら展が初めて開催され、その中には火星ロボ大決戦!の展示もあった。火星ロボは完結後に他社から新装版が発売されており、芳文社のこういった催しには出られないのではないかと心配していたのだが、その心配は杞憂に終わった。私が火星ロボと出会ってから約10年後、私はきらら展の会場で描き下ろしの火星ロボと再会した。久しぶりの火星ロボは相変わらず熱く、そしてエッチだった。恐らく10年後、20年後も、私は火星ロボ大決戦!を忘れないだろう。何故なら私にとって、火星ロボは永遠の「初めてのきらら作品」なのだから。

 

「ニチアサ以外はやってます!」

オタクって、めんどくさい。

私はオタクだ。当然きららオタクだ。しかしオタクとは、何か資格が要る訳でもなく、誰かに認められてなるものでもなく、名乗ったもん勝ちである。だから自分がオタクだと思えばオタクだし、自分はオタクではないと言うのならそうなのだろう。他人がとやかく言うものではない。そしてオタクはよくこういうどうでもいい文章を書く。私もよく人には見せられない文章を書いている。オタクは、他人から褒められるより、自分が面白ければそれでいいと思ってる。勿論、これは人によりけりかもしれない、人に褒められたくてオタクをやってる人もいるかもしれない。でも私は、自分の内側から湧いてきたこの「好き」という気持ちは、決して他人から押し付けられたり、与えられたり出来るものでは無いと思っている。オタクって、ロマンチックに言ってしまえば、自分の運命と出会えた人なのではないだろうか。

オタクって、分かり合えない。

オタクという概念が生まれてから50年とも言われているが、この50年の間でオタクという概念はより広範囲に広がり、そしてより子細に枝分かれしていった。それによって何が起こったかというと、オタクという概念は人によって認識が大きく異なり、そしてオタクの中でも共通の認識を持つことが難しくなった。近年の趣味嗜好の多様化により、我々は各人の個性を尊重するようになったが、それは同時に個性のぶつかりや反発を生むようになった。オタクとは今となっては連帯を表す言葉ではなくなったのだ。

オタクって、孤独だ。

前述の趣味嗜好の多様化にも繋がるが、オタクは周りに理解されない。そして理解者を見つけるのがとても難しい。だって自分と同じ人なんて中々いないから。だからオタクは他人にアイデンティティを求めている余裕なんて無い。オタクは自分一人で自我を確立しなくてはならない。私もリアルで同じ趣味の人なんて会ったことがなく、それは少し悲しいと思っている。人は孤独に生まれて、孤独に死んでいくのだ。

しかしそれは、オタクを表す全てではない。オタクでも、時に手を取り合い、分かり合うことで、独りでは生み出せない境地に辿り着くこともあるのだ。

ニチアサ以外はやってます!は特撮を作るお話である。そして登場するキャラクターは当然特撮オタクが多い。そんな中で私が強く印象的に覚えているエピソードが、特撮研のメンバー・本郷苺と早田唯が協力してヒーローのデザインをする話だ。本郷苺と早田唯は中学時代にも喧嘩したことがあり、高校の特撮研で一緒になっても未だにバチバチに喧嘩していて分かり合えない間柄だ。何故二人は分かり合えないのか、それは二人が同じ特撮オタクであっても、その中身は全く異なるからに他ならない。オタクはオタクとしての立ち位置が近いほど、その些細な違いが気になって逆に仲良く出来ない生き物なのである。しかし作中では最終的に、本郷苺と早田唯はお互いに協力してヒーローのデザインを完成させている。それは何故か。それは二人がお互いの「好き」を否定せず、認め合うことが出来たからだ。いつもは気に入らないあいつでも、認めるところは認め、分かり合う。もしかしたら、これからのオタクに必要なのはこれなのかもしれない。

オタクという存在は近年かなり市民権を得てきたが、まだオタク以外の人からは誤解も多く、またオタクの中でも多くの問題を抱えている。しかしそれでも、争いではなく理解を、否定ではなく肯定を、オタクという概念が誤解無く広がり、全てのオタクに幸あれ、そう私は願っている。

 

「青春過剰Sisters」

青春過剰Sistersという漫画をご存知だろうか。まんがタイムきららミラクにて2013年〜2015年頃に連載されていた作品で、ぶっ飛んだギャグと百合要素が強く、私も非常にハマった作品である。だから感想文を書こうと思った時、真っ先に思い浮かんだのはこの作品でした。しかし今回は、この作品の内容についてこれ以上触れることはありません。何故なら、私がこの作品について思い出す時に絶対に忘れられないのが、「コミックス店舗特典」のことだからです。だから今回は、この作品のコミックス店舗特典にまつわるお話しをしようと思います。

本題に入る前に知識の共有をしましょう。まず「コミックス店舗特典」とは、各書店でコミックスのおまけについてくるものです。基本的には無償であり、場合によっては有償のものもあります。ものはイラストカードが多く、それ以外にもブックカバーとかリーフレットのパターンもあるので、これはものによりけりです。種類は全部で10種類くらい付くことも珍しくなく、ファンならば全種類コンプリートしたいと思うことも不思議ではないところです。

さて、私はこれから「青春過剰Sisters1巻のコミックス店舗特典を集めるのが凄く大変だった」という話をする訳ですが、そのためにはもう一つの知識を共有したいと思います。それは、現在は店舗特典はきらら編集部がまとめてX(Twitter)で告知していますが、2014年当時はそんなものはなかったのです。ではどうしていたかというと、有志が自分たちで情報をまとめたり、作者自らがまとめを作って発信していたのです。今回は作者があまり積極的に情報を発信されないパターンだったので、基本的には自ら情報を探すしかありませんでした。もうこの時点で心が折れそうですが、当時の私は無知であり、そして恐れを知りませんでした。

2014年7月某日、私は新幹線に乗っていました。目的地は静岡である。当時の私は中国地方の某県に住んでいたので、静岡までは新幹線で片道4時間以上かかる長い旅路でした。静岡に向かう目的は当然、店舗特典を入手するためです。目的地となる書店はそれまで聞いたこともないような一地方書店であり、こんな目的が無ければ一生来ることは無かったことでしょう。しかし私は名古屋で新幹線を乗り換え、静岡からは更にローカル線を乗り継ぎ、当時はまだガラケーだった携帯に映した地図とにらめっこしながら、夏の暑さに辟易しながらも何とか書店に辿り着き、無事にコミックスと店舗特典をゲットしたのです。

勿論、話はここで終わりません。私はその後、名古屋に戻りその他の幾つかの書店の店舗特典を入手した後、一度自宅に戻ってしまっています。何故か。情報だ。情報が足りなかったのだ。私はこの時点では全ての店舗特典の情報をまとめきれていなかったのです。よって、自分がまだ全ての店舗特典を手に入れてはいない、という事実に気がついたのは自宅に戻った少し後でした。今から考えればあまりにも無謀、そして浅はかである。しかし当時の私は諦めも悪かった。一週間後の8月某日、私は再び新幹線に乗っていました。

次の目的地は関西、具体的には京都・大阪・神戸だ。それぞれにここでしか付かない店舗特典があるという。実際には幾つかは共通のものがあったはずですが、やはり当時の私は情報が足りなかった。私はまず京都に行き、そこから順に西へと向かっていきました。不確定な情報を頼りに街中を歩き回ることもありました。関西の土地勘は無かったので、意外と各都市は電車ですぐ近くなんだな、と知ったのもこの時でした。何はともあれ、私はこの時に出来る全ての力を用いて、全ての店舗特典を入手したのでした。

店舗特典については批判されることも少なくありません。ファンであればあるほど金銭的負担は増え、同じコミックスを何冊も買うという行為はファンから見ても少々異様に映ることも多いからです。勿論、その事については私も否定することは出来ません。しかし、私は店舗特典について考える時、同時にそれによって得られた数々の経験も思い出すのです。

もしもあの時、私が店舗特典を集めようと思わなければ、私は静岡の書店まで行くことはあっただろうか?未知の土地で携帯の地図だけを頼りに目的地を探すという、宝探しのようなことはしただろうか?乗り換え案内だけを頼りに馴染みの無い駅に行き、初めての電車に乗ることはあっただろうか?インターネットで一粒の砂を掴むように、根気良く情報を探すことはあっただろうか?

何が人の糧になるかは分からない、私はそう思います。私はこの旅を通じて、あの時から、そして今でも、多くのことを学んできました。だから私が青春過剰Sistersを思い出す時、私は私を強くしてくれた、あのひと夏の旅の記憶も一緒に思い出すのです。